白川総裁による高橋是清の日銀引受論を検証する
白川総裁は、通貨、国債、中央銀行 ―信認の相互依存性―にて高橋是清の日銀引受について述べている。
高橋蔵相は軍部の予算膨張に歯止めをかけようとして凶弾に倒れ、結局はインフレを招いたわけですが、偶々軍部の予算膨張を抑えられなかったのではなく、市場によるチェックを受けない引受けという行為自体が最終的な予算膨張という帰結をもたらした面もあったのではないかと思っています。現在、金融政策を巡ってよく用いられる言葉を使うと、引受けという「入り口」が予算膨張の抑制失敗という「出口」をもたらしたと解釈すべきではないかということです。この点、今日の目でみて興味深いのは、高橋財政期の日本銀行による国債引受けがあくまでも「一時の便法」として始まっているという事実です5。高橋蔵相は帝国議会での演説で、引受けによる国債の発行は一時的なものであることを述べていますが6、その後の歴史はこれが一時的なものではなかったことを示しています。現在、先進国はもとより、新興国でも中央銀行による国債の引受けは認められていません。中央銀行による国債の引受けは、初めは問題がなくてもやがて通貨の増発に歯止めが効かなくなり、激しいインフレを起こすことによって国民生活や経済活動を破壊します。人間は誘惑に弱い存在ですが、そうした弱さを自覚するがゆえに、予め中央銀行による国債の引受けを禁止するという強さをもった存在と言えます。
日銀引受は激しいインフレを起こすとしているが、なぜ起きたかは不明瞭であるので白川総裁の発言から仮説をたてて検証する。
データは戦前基準国内企業物価指数から引用する。
激しいインフレという定義があいまないため、いくつかに分けて考える。
まず始めに、インフレ率を見てみよう。
激しいインフレというので、厳密な定義ではないが、ここでは20%を超えるインフレ率のこととする。
1931年から2010年で10%を超えたのは、1937年、1945-49年、1974年の三回である。
つまり、ここで激しいインフレというのは37年と45-49年のふたつのケースを考える。
【1937年説】
1,高橋是清が凶弾に倒れたため
凶弾に倒れ、結局インフレを招いたとすると
⇒凶弾に倒れなければ、インフレにならなかった?
現在の状況で日銀引受を行うと出口戦略の時に、二・二六事件に匹敵あるいは、同程度の日銀に対する圧力が発生するイベントが起きると想定?
2,支那事変が勃発したため
前項と似たケースだが、高橋是清が凶弾に倒れなくとも戦費拡大のために、出口戦略が戦略がとれず、インフレを招いたということは考えられる。
⇒この時の選択肢は、戦費を補えず戦争から撤退 or 戦争で勝利するためにインフレを許容
これを仮に現在、日銀引受をした後に戦争と同規模の財政支出が必要となった時に、選挙で選ばれていない日銀が判断?
【1945-49年説】
1,1932年に高橋是清が日銀引受したため
日銀では、高橋是清陰謀論は主流である。
⇒13年前の高橋是清の日銀引受に理由に追い求めるのは、1960年の池田勇人の所得倍増計画で1973年のオイルショックになったと言っているようなもので、かなり無理がある。
さらに90%以上は市中で売却されており、残りの10%でインフレが生じたというのもかなり暴論である。*1
さらに1942年のデフォルト、後述するが、戦後の預金封鎖や財政・復興資金の日銀引受は?
2,戦争に負けたため
⇒戦争に負けたことと高橋是清は関係ない。日銀引受までして戦争に乗り出したために、戦争に負けてインフレになったという考え方もできるが、日銀の政策判断の域を超えている。
3,戦後に大量の財政資金と復興資金が日銀引受によって調達されたため*2
⇒高橋是清と関係なく、戦後の日銀の政策。
それでも、高橋是清の日銀引受が激しいインフレにつながったと思うだろうか。
*1:池尾和人:戦前期の日銀国債引き受けの実態
*2:岩田規久男:経済復興